日本遺産認定「百世の安堵」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~

紀州有田・南紀男山、廣八幡神社
「稲むらの火」で村人が避難した神社

 
廣八幡神社楼門

御由緒

 当社はこの地の産土の神として、古来より長きにわたり人々から崇敬されてきました。
 神功皇后が三韓を征しての帰途、この有田広村にも行幸されたというご縁があり、欽明きんめい天皇(6世紀中頃在位)の御代に、河内国誉田こんだ八幡宮より勧請されたと言い伝えられています。
 『紀伊続風土記』によれば、室町時代初期(応永年間)、梅本覚言うめもとかくごんという土豪が現在地に遷宮したとの記録がありますが、定かではありません。
 天正年間には豊臣氏の紀州征伐により一部焼失しましたが、江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受け、次第に興隆していきます。

 江戸時代に刊行された『紀伊名所図会』には、「廣八幡宮」として絵図や由緒が記されています。多宝塔や鐘楼、西門、観音堂などが描かれており、神仏習合の様子がよくわかります。明治の神仏分離により、多宝塔は広島市の三滝寺みたきでらへ、鐘楼は広川町上中野の法蔵寺ほうぞうじへ、西門は同町広の安楽寺あんらくじへそれぞれ移築されています。

明治中期の絵図

<明治中期の絵図> 

 現在、昭和53年以来の修復工事「平成のご造営」を行っており、平成28年9月に竣工の予定となっています。本殿、天神社、楼門他主要な建築物はすでに修復を終えており、その美しい朱塗りの外観を見ることができます。

 
紀州有田・南紀男山、廣八幡神社
和歌山県有田郡広川町上中野206
Tel&Fax:0737-63-5731/0737-62-2371(宮司宅)